わゐうゑをと据る心 |
昭和四十五年十一月二十日の、よみうり歌壇で、飯島巌さんのに、種子播きし条整然と続きゐて広畑にいま夕陽い照らふ、を拝読して、ゐて、照らふ、をみつけたヨ。 いまの時代に、「ゐ」や「ゑ」や「らふ」などをみつけると、うれしくなるのサ。 ある日、列車のなかで、「君らは、太平洋戦争まへの仮名づかひをよくしらないがらネ。ホラ、ここをよんでごらんヨ」と、高校生、二本柳妙子さんに、立原正秋氏の文がある読売新聞をみせて、「匂、を、にほひ、と書きたい、あはれ、をあわれでは気韻にとぼしい、とか晝いてあるけれど、僕は、声の字に感情をきくようになツたヨ」と、しゃべり立ててネ。 「ネ、わたる(渡)、の、「わ」のうちは、まだ渡ってゐないヨ。 アイウエオを、出発する心、立とうとする心の声ときくとネ。 ワヰウヱヲを、元に戻る、据る、心の声ときくのサ。 だからネ、「ワ」のうちは、「元にゐる」ときくネ。 ワ行を、「そこに整ッてゐる心」の声ときけぱ、「そこにゐる」の「ゐ」も、(ヰ)元の姿にととのふ形、と、きこえたネ。 「ワタル」の、「夕」を、進む心の声として、「ワタル」の「ル」を、一方から他のほうへつなぐ心の声としてきくのサ。 すると、「ワタル」は、「(ワ)元にゐる姿から、(夕)すすんで、(ル)他の方へとつながる」と、でてくるヨ。 僕は、感情が声をだす、と、ききはじめたネ。 コトバの本来は、感情の連結から、でてきたように、きこえはじめたヨ。 僕は、言語学などを知らないから、子供のたはむれかもしれないけれど、コトバのイミを、声の感情で分けると、うまい具合にでてくるのサ。 「どうして、それ、かんがへたノ」 「あのネ」 「なにから入ッたノ」 「それはねエ。生命が、はじめてこの地界へきたときを考へてゐたのサ。 じつに、じつにちいさい、ヴィルスとかよりも、もッと、もッとちいさい生命がネ。 この、ひろびろとした地界へきて、想像をひろげたとき、八方へ考へをめぐらしてひろげたとき、どんな心の形になッたろうナ、と、フト、おもひついたのだヨ。 生命はサ、もともと生きてゐるんだヨ。 人間がかんがへると、まことに微少な、想像の極限の小さい形だけれどもサ。 その中に、無限大の広さを、内奥してゐるとしたんだヨ。 たとへば、鏡ネ。あれは、大きい鏡も小さい鏡も、なかにはおなじおほきさの姿をいれて映すでしョう」 「ハイ」 「生命もね。一点のなかに、その内奥にネ。空とおなじの無限大を入れてゐたとおもツてネ。 南瓜のタネも。あの小さい中に。物質をひきよせると、ながいツルがのび、おほきな実をいくつもつける力を、いれてゐるとおもふナ。 そのように、一点の微小の生命のなかに無限量のひろがりがはい夕てゐると、かんじたのだネ。 その生命がこの地界へきて、心をひろげて物質をくツつけたら、象のように、大木のようにも、あらはれてくる、ふくれてくる、ひろがッてくる心の体を持ッてゐると、かんじたヨ。 それは。波紋のように、のように、際限もなく、ひろがる心の型をつくるとしてみたのサ。 この、ひろがるの心型が、躰にもあるでしヨ。ホラ、瞼がひろがる、唇がひらく、皮膜がふくれる、ネ。 この、躰にもある、ひろがるの心型が、声をだしたら、ハヒフヘホ、HBVPF系統のさけびをだす、と、きこえてきたヨ。 だから、ハ行系の声には、「ひろがる、ふくれる、中心から八方へひらいて行く。 中心を。原点を、去ッて行く、はなれて行く。 刻々に姿をかへて行く。 または、心をひろげる。行動を、希ひを空想を、ひろげて行く」などの、感情をさけぶ、と、して見るようになッたのだネ。 ホラ、恋と言ッて、「こひ」の「ひ」には、「思ひをひろげる。願ひをひろげる。相手への想ひが、どこまでも、ふくれる」とゆふ声の感情をきく、と、おもッたネ。 「こひ」の「こ」。 力行を、耳のあな、鼻腔、口のなか、のように、の形をつくる、「迎へる、入れる、引く、呼ぶ、食べる」Uの心型の声、と、きいたけれどネ。 すると、「こひ」とは、「(コ)迎へたい、(ヒ)想ひをひろげる」感情、と、きこえてきたヨ。 「(コU)呼び入れたい、(ヒ○)ねがひをふくらませる」感情と、きこえてきたネ。 「(コ)自分に入れたい、(ヒ)おもひがふくれて行く」ことになッたヨ。 「アラ、おもしろいワ」 「英語にも、LOVE、ラブと「ブ」、ハ行とみたVの声があるから、英語のLOVEも「(V)おもひをひろげる」らしいナ。 LOVEのLは、神経系のような長い心の形をつくる、一方から他方つなぐ、の心型の声として、ラ行をきいたから、LOVEとは、「(L)つながりたい、(V)おもひがふくれる」と、きこえるヨ」 「ウーン。興味がでるワ」 「漫才か、落語のようだろうカ」 |