太陽魔術                                                                               

相 性
 <コメント>
長い間病床にあった父に快方への兆しが見えてきました。
健康だった頃の情交のさまを回想し、男女の相性について思いをめぐらせます。



何ヶ月もとざしてあった縁側の兩戸があけられた。
快晴をかんじさせるあかるさが、障子をとほして、ずっぽりと部屋にあった。
ねてゐる男は、夏かをる気分をあびると、とつぜん、すぎた日のささやきがきこえてくる。

―――その日も、部屋には陽気がかもしだされてあった。
とほくで、馬車のおとがする。
「ホラ、たれか、くるワ」と、女は、男女のにほひにとけながら、男の眼尻にささやいてくる。
「ホラ、人のおとヨ」と、熱中をとどまらせる。
けれども、雄の耳とゆふものはこのようなときにするどい。
だから女は、安心してはなれようとしない。
「もう、よしましょう。誰かくるワ」しかし、よしたくはないのだ。
女は、体内から男を押しはじめた。
男は雄獅子のようにあたりを警戒しながら、女の泣くのをまった。
女はむせびないたあと、男の肩にしがみついてふるへた。
男は女の愛感におどろくと、力をくはへて女をなでた―――。

いま、病床にゐて、健康であったあの頃の情交が、弦のなるようにひびいてきた。
この躰にやっと精気がもえはじめたのか。
男は、胸いっぱいに、いきをすった。
秋には起きて食事ができよう、と、ようやく予定にもにた決意をもつまでのところへ、男はきた。

相性。
人と人との相性。
男と女との相性。
男と女がひきあふイミを、男はかんがへる。
それは、曇と晴の、能動と受動の、現象で、(進取)心体と (迎入)心体とに裂かれた裸体が、生命本来の姿である、 原体の形にかへりたいあひ引きにすぎない。
それは動の動物性と、静の植物性との二心型組が生命 (原体)
の「完全」へかへりたい取っくみなのだ。
いのちの の完全心体が、地界現象の「静動」に割られてしまって雄と雌とか、動物と植物とかに、つくられた因果にすぎない。
地上へさしてくる太陽の光りが、また太陽へ逆もどりしてかへって行くなら、男と女が地界でみっともない愛憎行為をくりひろげなくともよかったのかもしれない。
吹いてくる風が、そのきたみちをそのままとほってかへって行くならば男と女はうまれなかったかもしれない。
だが、一方通行よりできない地界現象の鋳型につくられてしまった雄と雌の体なのだから、しがみつくけれども凸と凹のままにわかれ、だきあふけれども事のをはりにはなれ、そして一方通行の静動の子をのこして行くほかはない。
男と女の仲も、川のながれが逆流して山へはかへらないし、杉の木がいつのまにか馬にはばけられないし、たがひに のまま見あひながらすすむだけだ。
地界現象は一方通行なのだから、男と女とは、からだをくみたててゐる九心型の回転にうごかされながら、生涯を引っばられて行くだろう。
 顔の剛型の男は、頬のふくれた 型明朗の女とくらすのがよいのかもしれない。
額のひろい型神経質の男は、 顔の陽型と一緒なのがよいのかもしれない。

男は、ここまできて、相性とゆふ学問が世間でなかなか人気のある意義を、理解できるとおもった。
                                     
だが、男は、ここにつきあたる。
九心型はだれにでもみな回転してゐるとした。
剛の (守備)心型が裸体のうへにでてゐる人も、内には温順の  (迎入)心型がはいってまはってゐる。
それが、時と所と場合によっては、外へでる可能をもってゐるのだから、頑固者も、いつかは温和になる時があろう。
誰にでも九心型はみな回転してゐる。
これは、いのちのはじめの型が地界へきてからわかれた心型だ。
この、原体の「完全さ」は、誰の中奥にもはいってゐる。
理屈でゆふなら、人は、の完全、の円満、の共存、へかへろうとする方向の、の原基を、みんなもってゐる。
ところが現実では、菊の花ありバラの花ありで、べつべつだ。
だが、よくみる
と、菊にも長型の莖があるし、バラにも長型のつるがあるから、そこから共通、共荻の手をのべてはいれる入口をみつけられる。
外の形はちがってみえても、中にはみんなおなじ心型をいれてゐるとゆふことだ。

だから相性も、あるといへばあるように外形をみられるし、ないといへばないように中にある自在をみて丸くおさめられるともなるのだ。
男は、本箱から人相や手相の本をぬきだして、その統計的なものを熱心にめくった。
この勉強も、のちに太陽魔術へつきあたる知識の一つになってゐる。 
 
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