太陽魔術                                                                               

異端の年へ
 <コメント>
今から60年ほど前のこと、私が12〜13歳くらいの正月のある日、一人の中学生が手紙を携えて病み上がりの父を訪ねてやてきます。
以前壁塗りを頼んだことのある職人の子供でした。
父は求めに応じて、手元にあったなけなしのお金貸し与えます。
そんなエピソードからはじまります。

父は楽天的な金銭感覚の持ち主で、「お金は必要な時に必要なだけ入ってくる」といつも言っていました。
今日食べるものがあれば、明日へのたくわえなど1円も無くても平気。
こんな父のもとで、母は大変な苦労をしました。
母の苦労や心配をよそに父は「9心型」に夢中。

人体は、九心型の回転にくみたてられてうごいてゐるとみてきた。
躰の構造にないものを人は表現することはできないにちがひない。
声の感情は、躰をくみたててゐる九心型のさけびではなかろうか。
万物は9つの心型から出来ているのであれば、声も心型の現れのはずだ。
(進取)の心型はどんな声を出すんだろう。


こんな発想から声の感情を探っていきます。


 正月の雪はとつぜんあたらしくみえた。
雪がやむと、雲が光りにそまったのもあたらしくみえた。
つめえりの黒服をきて、たづねてきた中学生が、キチンと膝を折って正座した態度にもあたらしさをかんじる。
病みあがりの男は、朝の茶の間におきてゐて、その田舎中学生から手紙をもらった。
「けがをしました。まことにおそれいりますが、なんとか、三千円ほどかしてくださるようおねがひします。
春になったら。かべぬりにおうかがひしますから」とある。
東京で、やくざ仲間にゐたこともあると言ってゐた「元やくざ五十男」からの手紙だ。
―――けがをしたのか。けがならしかたあるまいな―――
と、すぐに、相手の身になる心がひろがって行く。

きのふ、あるだけの貯金をさげさせたばかりで、その二千円が状差しにあるのを気づくと、「それを渡してやれ」と言ってしまった。
男は百姓なのだから、当分の米はあるし野菜もかこってある。
魚をかふ金には二ワトリの卵をうってあてればよい。
なんとか春先までくひつなげば、あとはポツポツ新物をうりにだせると、三年も病床にゐて暮しの役にもたたなかった男が、自分勝手な判断でたちまち、イエス、オーライ、を言って、家族に命令をした。
田舎中学生は、男の洗ひざらひの金をうけとると頭もさげずにかへった。
そこで男は気がついた。
ハテ、この中学生には初めてだし「元やくざ五十男」も、四年ほどまへに一回だけカベぬりをしにきただけの顔ではないか。
―――借用証も書かせなかったナ。だが、いいではないか、けがをしたとゆふのだものヨ―――
と、あひかはらず呑気な考へにおちて、さくらの咲く春をまつことにする。

男には、九心型の神話が、四六時中つきまとふ。
生命光体が、進むときは、の形に
ものを受けいれるときは、 の形に
心をひろげるときは、 の形に
ものを選びわけるときは、の形に
堂々ニコニコヘいちゃらのときは、 の形に
待期し、連絡にはしるときは、 の形に
外に抗ひ内を守るときは、 の形に
ものを集め抱へるときは、 の形に
不要をすてて去るときは、 の形に

進むときは、心体が、の形になったとした。
おもひつくと、道しるべなどにも方向をしめして、じるしをかいてあるではないか。

ものを受けいれるときは、心体が、 の形になったとした。
凹の字があるけれども、人は、内へ引く心をしめして、凹の字をつくったのか。

ものごとをわけるとき、じょうずなのに  じるしをつける。
これは「完成してゐる」の  心体が、 じるしをつけるのだろう。
先生が、絵や書に、よいものへ、 をつける。
生命原体は多劫のむかしからすでに「完成」してゐたとしてきた。
生命がこの地界へきて、堂々ニコニコヘいちゃらのときは、心型になったとしたが、「完成してゐるヨ」の心をおこしたときにも、自分の生命  原基の「完成」した心が共鳴して、 じるしをつけるのだろう。
日本文は、一行のまとめのところに、をはりのところに、「。」じるしををく。
これも、ここに「完成」の気持ではないのか。

書きものなどの点検にも、誤りのところや、ここは一考を要するのところや、上下、または左右に区わけするところや、に、 じるし、チェック、をつけるだろう。
生命光体が地界へきて、えらびわけるときは心型になったとしたが、このVじるしにも、えらびわける心型のうごきがあらはれるのではないのか。

生命光体が地界へきて、待つとき、つぎの行動へうつろうとき、連絡しようのときには、 の心型になったとしたが、人もまた、右と左を、上と下とを、つなぎむすぶとき、 の長い線をひっぱるだろう。

生命光体が、自分の内部をまもるときには、の心型になったとしたが、文章のなかに、「 」をつくるのも、なかをかこむ心型の感情ををくわけではないのか。

ここまできたところで、男は、文字のつくりがうかんだ。
「まてヨ」となった。
囲の字、中の字、団の字、田の字、男はこれらの字をあつめるうちにまたこの方向へとはいってしまった。
これらの文字にも、(中をかこむ、中へいれてしまふ)とゆふ、生命光体が地界へきて、(内をまもり外に抗ふときにはの心の形になった感情が)つかはれてゐるのではないかとする追究にとらへられたのだ。
男には、字をつくる線の動きに、九心型の感情のながれを見ることからはいった。
男は、漢字の組立ての分解にかかって、エンピツをなめなめ、百も二百も文字をいじくりだした。
漢字のなかから、井とかとかイとかワとかレとかナとかエとかコとかシとか卜とか二とかフとかへとかミとかの、片カナが、いっぱいこぼれた。
――そうだ。アイウエオ五十音字は、五段十行の配置になってゐる。
そのうち、ア行は、「声の感情」の、発出音ではないのか。
あとは九行だ。
この九行はこれまでかんがへてきた九つの心型の数とおなじだゾー。
と。ここへきた。

――まてまて。
アカサタナ(マヤラワ十行のうち、発出音とみるア行をぬくと、カサタナハマヤラワ九行だ。
これを九心型の叫びとみたら、声の感情のイミがでてこなければならない

――さア、神経系のように、血管のように、食道のように、の形をつくる連絡心型は、カサタナハマヤラワのうちのどの行を叫ぶのか。

――耳腔や鼻腔や内臓などの、受けいれるときにはの形をつくるとした心型は、いったい、どの行の感情をさけぶだろう。

――爪先や鼻先や手先や亀頭をつくるとした、の心の形をしてゐる心型の声は、カサタナハマヤラワのうちのどの行なのだ

人体は、九心型の回転にくみたてられてうごいてゐるとみてきた。
躰の構造にないものを人は表現することはできないにちがひない。
声の感情は、躰をくみたててゐる九心型のさけびではなかろうか。
男は、ここに気がつくと、心をすゑて、異端の道へとふみこんでしまったのだ。
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