そうサ、そうネ |
けれども、やツぱり、声の感情、にはとらへられるヨ。 い心の形の声を、サ行SXZ系といッたネ。 卵だネ。 人間なら、卵巣とか精巣とかの心の形の声とみるヨ。 ここに基点がある、と、みたのサ。 なぜかといへぱ、ものの原点の形をだとしたからだヨ。 生命の原基の形を、型としたのだヨ。 の中に共存がはいッてゐる、としたヨ。 ここから、生命の力がでてくる、としたヨ。 精巣や卵巣から、生命体がでてくるでしヨう。 目玉から心がでてくるでしヨう。 乳首から、子供を生かす乳がでてくる。 のなかから、自分と離れて向ひあふものの生命に力をあたへるもがでてくる、と、おもふヨ。 の中に原基がはいッてゐる、とみたのサ。 原基とは、実質のこと、そこに確実の基礎がある、としたヨ。 そして、すぺての生命体の中心にこの型がはいッてゐる、と、みるのサ。 中心同一に型がならんでゐる、と、おもふヨ。 の形がおなじに相対してゐる、と、みえるのサ。 そこに共鳴がある、と、おもッたヨ。 この、をつくる心型が、サシスセソSXZ系の声をだす、と、したでしヨ。 だから、「そうサ」といへば、この「サ」は、「(サ)確定してゐる」心の声とみるヨ。 「そうサ」とは、「(ソ)そのとほりが、(サ)きまツてゐる」とする心をしゃべる声になるのぢゃないかネ。 「そうセ」といふのも、「セ」は、サシスセソの「セ」で、アイウエオの「エ段」だネ。 エ段を、(攻)(防)の心の段、としたネ。抵抗する心の段でしヨうネ。 だから、「そうセ」といッたら、「(ソ)そのとほりの、(セ)確定に進め」とか、「(セ)事実を守れ」と出るヨ。 「山サ行くべ」といッたら、この「サ」も、「(サ)確定、きめてかかる」気持があるのといッしヨに、(サ)には、「相対する、向ひ合ふ心、ならぶ心」も、あるとおもふけれどナ。 ところが、「そうネ、と、言ッたらサ」、になると、この「言ッたらサ」の「サ」には、「(サ)それと共になる心、それと並ぶ心そのことに添ふ心」の気持ぢゃないかナ。 「(イ)心に抱へてあるものを、(夕)出して。「(ラ)それにつないでやる気持に、(サ)添ふネ」のような心もちにならないかネ。 の心型の性質から推理してゐるのだヨ。 ところが、「そうネ」の「ネ」。 「ならないかネ」の「ネ」。 これはどうカ。 の心型のさけびを、ナニヌネノN系としたでしヨ。 の形の生命光体が、この地界へきて、ものごとを、えらびわけるときには、の心型になツたとしたヨ。 これは、耳が音をえらぶ、舌が味をえらぶ。視覚にも嗅覚にも、内臓にも、この、えらび分けるの心型をみる、と、おもッたヨ。 耳が音をえらぶ。 音に、分けてはいる。 音といツしヨになる。中をくぐらせる。 前の形を、右か左かにえらんでみる。 入ッた音が消えて、答へが姿をあらはす。 それで、ナ行N系のの心型には、「分析する。分けて入る。一色化する。化入する。くぐりぬける。前形がきえる。別の形にはいる。疑ッてみる」などの感情が基本的にはあろう。と、いツたのサ。 「そうネ」といツたら、「(ソ)そのとほりに、(ネ)分けてはいる、それといツしヨになる」気持とも、なろうかナ。 また、「そうネ」といふときには、「(ソ)そのとほりの中に、(ネ)分けてはいッて、それをえらんでみる疑ひをもつ心」もはたらいてゐるときが、あることになるネ。 「そうさネエ」 「そうさナー」などの、ナ行の声には、「(ナ)分けてみる、えらぶ心」が、それにくぐるように入ッてゐることが、おほいと、おもふがネ。 「そうヵ」といッたら、どんな心かネ。 この「どんな心かネ」といふ「ネ」には、「(ネ)分けてみる心、うたがひ」心がみえるぢゃないノ。 耳のあなも、入ってきた音を抵抗もなく引きいれてしまふ。 鼻の鈿かも空気をスーッといれてしまふ。口のなかも膣のなかも、入ッてきたものをスルスルと迎へいれるでしヨう。 食物がさがッてきたら、胃袋もハイハイと迎へてしまふでしヨう、もちろん唇にも陰唇にも、抵抗する心型のおさへる力をその門口にをいてあるでしヨ。 だが、中へはいツてしまツたものなら、ハイハイと入れてしまふでしヨ。 この、の形をした心型は、くるものをおとなしく迎へ入れる。呼びこむ、食べる、それが毒、毒でないにかかわらず、ハイハイと入れる、とおもふヨ。 の心型が力行KCQ系の声をだす、ときくのサ。 それで、力行心型の声には「迎へ入れる。引く、中が豊富、温和、受動的」などの感情が基本的にはあろう、としたヨ。 だから、「そうカ」といッたら、「(ソ)そのとほりを、(カ)受け入れる」気持となツて、「そうカ、よしよし」とくるのぢゃないかナ。 ところが、「ほんとうカ」とか「分ッたカ」などには、ナ行の(分けてみる心)心型の声が、心の内でつながツてゐるのぢゃないかネ。 「そうカナ」、「分ツたカナ」とか、「そうカネ」「分ッ夕たカネ」などとナユヌネノの「えらぶ心型」の声が、かげにっながッてゐるのとちがふかネ。 ねエ。いいかい。耳に音が、入ってきたら、音のイミを分析してみる。 掌が物を、U受けたら、それをえらぴわけてみる、となッて、迎へる心型と、選ぶ心型とは、となり同志の心組だ、と、したのサ。 それで、「そうカ」とか「そうケ」とか言ッたら、ものごとによツては、「そう力ナ」「そうヶネ」と、うたがひ心のナ行心型の声が、心のうちでつながツてきてゐよう、と、おもツたのだヨ。 「そうヨ」とか「そうヤ」とか、これはどうだネ。 ヤ行Y系の声を、集めるとか抱へこむとかそれに心よせる、熱中するとかの、腕がかかへこむ 心型の、さけびとしたヨ。 だから、「そうヨ」とか「そうや」とかいツたら、「(ソ)そのとほりを、(ヨ)抱へこむ」気持のさけび、と、きこえるけれどナ。 熱がこもッてゐる心のときがおほくなるとおもふナ。 夕行TDJ系の声を、進む、そこを取る、占める、奪ふ、心型のさけびとしたから、「そうダ」となッたら、(ソ)そのとほりを、(夕)取ツた、占拠したゾ」となッたネ。 ハ行HBVPF系の声を、ひろがる、八方へふくれて行く、心型のさけびとしたから、「そうだベ」となッたら、(ソ)そのとほりを、(夕)占拠して、(へ)その場所をひろげた」ような気持になるかネー。 どうかネー。 僕には、「声の感情で、叫ぶ心がきこえるのぢゃないかナ」とかんじるが、ひとり合点かネ。 |
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