心体感情-1 |
僕はあまり本をよまないが、本屋で、倉橋由美子氏の「人間のない神」を、なに気なくめくるとネ。 新版あとがき、のところに、これを拝見したヨ。 「------現在私は原則として新仮名遣いでは書かないことにしてゐますが、十年まへにはこの点についてもいまと違った考へ方をしてゐたので、それはそのまま若気の過ちのひとつとして残しておくことにしました。 昭和四十五年十二月、著者」 「ゐる」「まへ」のかなづかひにしてあツてネ。 かへってから名簿をみると、昭和のお生れとあったネ。 僕は、こうゆふのをみつけると、心体感情の声の字をますます考へようとするのサ。 ところで僕のも、印刷へまはすと、「かはる」を「かわる」に、「あらはれ」を「あらわれ」に変へられてしまツて、かなづかひが、バラバラにされてくるネ。 植字をする人が、声の感情などを教へられてはゐないだろうから、とてもこまツちゃふヨ。 それに、こっちも現代かなを三十年近く新聞でよまされてゐるので、もとの仮名づかひを忘れてゐるしネ。 声の感情を、どんな文の中にでも、聞くのだヨ。 それで僕は、「先生」におうかがひするネ。 ここに、昭和四十六年十月の新聞に或ッた、小、中学、つづり方コンクール、道知事賞入選作、室閲市立成徳中学校二年、加藤ゆかりさんの「医学の道へ」があるから、ごらんヨ。 「九月、もう初秋である。 ほおの横をそッと通り過ぎて行く風が、冷たく感じられる夕方過ぎには、なおのことそれが感じられる。 仕事を終えた父が白衣を身にまとったまま、居間へはいって来るのも、ちょうどその時刻である。 きょうは月曜日で休みあけということからか、患者が平日よりも若干多かったとのことである。」と、はじまるでしヨ。 どんな文の中にでも声の感情がきこえるとみるから、これをまづ五十一音かなづかひになほすヨ。 五十一音かなを、声の感情の配置図とみるからサ。 「九月、もう初秋である。ほほの横をそッと通りすぎて行く風が、冷たく感じられる夕方過ぎには、なほのことそれが感じられる。 仕事を終へた父が白衣を身にまとッたまま、居間へはいッて来るのも、ちョうどその時刻である。 けョふは月曜日で休みあけとゆふことからか、患者は平日よりも若干多かったとのことである。」 こうしてしまふと、安心して、声の感情をかんがへられるヨ。 文のはじめから「先生」におうかがひしたいヨ。 そのところを片カナで書いて、私の声の感情で、そのコトバのイミをこじつけてみるヨ。 、 「ホホのヨコをソット、トホリ、スギて、イク風が」 ホホ(頬)を、「(ホ)ふくらみ、(ホ)ひろげる」ときこえて、頬は、「ふくらむ」らしいナ。 「ホッペ」などゆふから、「(ホ)ふくれ、(へ)ひろがる」うごきにおもへるかナ。 英語のCHEEK(頬)、にも、「(H)ふくらむ」をみるから、「(C)入れる、(H)ふくらみ、(K)の中に」ともきこえて、頬はふくらみの中に何か入れてゐるよう、なのかネ。 タテ、ヨコとゆふネ。 縦は、(夕)進み、(テ)出るとなるから、「突出」のほうとみてネ。 横は、「(ヨ])寄せて、(コ)受ける」ときけぱ、波のうちよせる渚の線に想像されるナ。 声の感情のイミの考へ方、わかるだろうネ。 声の感情の心の形をみればわかるでしヨ。 これは符号ではないので、心の形を写生したものだからネ。 とあれば「進む心」だし、とあれば「ひろがッて行く心」だし、とあれば「一方から他方へつながる心」を写したものとみればよいのサ。 この心の形の声をきけばいいのだヨ。 「トホリ(通)」をみれば、「(卜)すすむ」があるでしョ。 「(ホ)そこをはなれ去ッて距離をひらいて行く」があるでしヨ。 「(リ)他のほうへ」があるネ。 だから、「トホリ」を、「(卜)すすみが、(ホ)そこをはなれて距離をひろげて、(リ)他のほうへと行く」と、きくのサ。 「スギテ」とは、(ス)基点」があるでしヨ。「(ス)原点」があるでしヨ。 「(キ)中へはいる。引いて行く」があるネ。 まへにでも、うしろにでも、引いて行くのでしヨ。 (テ)は、「すすむ心」としたからネ。 こうきくと、「スギテ」とは、「(ス)原点から、その場所から、(キ)引いて行く、(テ)すすんで」となるでしヨ。 ここで、「そツと過ぎて」の「ソット」を見ましヨう。 (ソ)を、「原点、基点」としたから、この、「(ソ)基点、原点」の心をおしひろげて推理してみると、これを、基本的な量、ともかんがへるヨ。 スコシ(少)の「ス」、シヅカ(静)の「シ」、アサイ(浅)の「サ」、ホソイ(細)の「ソ」などにある、サ行の声で、「基本的な量」そこから、一、二、三、四、と量がふえるので、一の基点、よりもッとまへの、0の原点、の姿、と、なるネ。 だから、「ソット」とは、(ソ)基本的な量、速さ、ほどに、「(卜)すすむ」わけとなるネ。 「シヅカ」も、「(シ)基本的な音を、(ツ)取り、(カ)入れる」となッて、もッとも低い音をとッてゐるわけでしヨ。 そこで「ソット」を、「(ソ)もッとも低い速さの、(ト)すすみ」と、きこえるのサ。 「行く」のは「イク」とも「ユク」とも言ふわけで、の形に集め抱へる心型のヤ行Y系の声ときくョ。 YA・YI・YU・YE・YO、の心体の声としてネ。 「そこへ心を集める、集中して行く、そこへ心を寄せる」感情を叫ぶときくのだヨ。 それで、「行く」のは、「(ユ)それに心を集中して、(ク)そこへ入る」とする感情と出るヨ。 これを逆にした「来い」とは、「(コ)迎へ、(イ)寄せる」となるネ。 「ほほノ横ヲそっと通り過ぎて行く風が」 ほほノの「ノ」を、「(ノ)分けてはいる心」で、どこへ分けてはいるか、とみると、「横」へ分けてはいる、「横」へ、いッしヨになる心、ときこえるナ。 横ヲの「ヲ」を、「(ヲ)まとめる心」とみたから、何をまとめる心かとみると、「横」だけを心にいれる、「横」のほかの雑を心に入れない、ことになろうネ。 横だけをそッと通るわけだろうナ。 風ガの「が」を、「(カ)受ける心」としたから、何を受けいれかとゆふと、風を、「(カ)心に引き入れる」気持でしヨ。 心に引き入れた風を、つぎの文につながッて、「冷たく」感じた、と、すすむようだネ。 「ツメタク、カンジ、ラレル、ユフ方すぎ、ニ、ハ」 ツメタイのは、「(ツ)進みを、(メロ)おさへられ、(夕)占拠、される、(シ)状態」ときこえて、心型のマ行M系の「力を内におさへる、力を内転させる」とみた感情があるのを、スグ気づくネ。 「サムイ(寒)」の「ム」とおなじサ。 「(サ)躰が、(ム)内へおさへられる、(シ)状態」ときこえるものネ。 ツメタクの「ク」を、「(ク)それを受ける、引きいれる」とゆふわけで、冷たさが、「(ク)はいッてくる」のだろうヨ。 カンジを、「(カ)受ける」それと、「(ンN)それと一緒になる」それから、「(シ)共存する。それと並ぶ」感情のつづりとみるから、カンジ(感)は、「自分の心に入れて自分とならんだもの」になるナ。 「ラレル」のラ行は心型の「つながる、一方から他方へ、右へも左へも」の声としたネ。 感じが、(ラ)そッちから(レ)こ夕ちへと、(ル) つながる、ようだヨ。 ユフ方といへば、フユ(冬)、のときにもこじつけたけれど、フユ(冬)を、春夏秋の「(フ)ひろがりが、(ユ)集まる、ここにきて抱へられる」季節になッた、一年の夕方ともたとへるところへきたとも眺められてサ。 ユフベ(夕)、のことを、その日の一日が、「(ユ)ここに寄せあつめられて、(フ)去ッて行くすすみの、(へ)あらはれ」に感じる頃、と、声の感情が、つづられてあるものナ。 夕方すぎニハの、「ニ」のほうは、「(二)分けてはいる心」で、夕方すぎ、と、一緒になる心」ときくヨ。 それから、すぎにハの「ハ」のほうは、「(ハ)ひろがり、とか、あらはれ」だから、夕方すぎ、とゆふ姿の、「現れ」の、刻々のうごき、を語る心、にきこえるけれどもナ。 |